2021-10-25 15:42:11
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コメント(3)
こんにちは。
今回も歴史について書いてみたいと思います。
いつの時代にしようかな。
とりあえずは平安時代後期にしましょうか。
源平合戦の時代になりますね。
この頃で有名といったら静御前や源義経でしょうか。
まずは義経について。
彼は幼名を牛若丸と言いました。
父は源義朝、母は常磐御前です。
義経は幼少時に父を亡くし平清盛によって処刑されそうになりました。
それを清盛の乳母であった女性が諌めます。
これにより義経は京都北部にある鞍馬寺に預けられました。
ちなみに彼には兄が二人いて長兄が今若、次兄は乙若と言いました。
長兄は出家して僧侶になりましたが。
義経――牛若は出家せずに俗体でいたのです。
牛若は時折、鞍馬山の山中に分け入り武芸の稽古に励む日々を送りました。
そんな牛若も成人します。
彼は夜な夜な血気盛んな若者たちを引き連れて徒党を組んでは暴れ回っていたようですね。
その中で出会ったのが鬼若丸――後の武蔵坊弁慶でした。
牛若丸は五条大橋での決闘を経て弁慶を部下に引き入れます。
こうして数年後に牛若丸は元服して源義経と名乗るようになったのでした。
義経は兄の源頼朝の元に馳せ参じて再会を果たします。
ここから義経の快進撃が始まりました。徐々に平家を追い詰めていきます。有名なのが一の谷合戦ですね。
ここで行われた鵯越えの際、義経は馬に乗ったままで断崖絶壁を駆け下りていきますが。
部下達は恐れおののいていたと言われています。
平家の軍勢は慌てふためいて逃げていきました。この後、義経は後白河院から官位を賜ります。けれどこの時から兄の頼朝から疑われ、不審を買ってしまいました。
壇ノ浦の戦いの後、鎌倉幕府の御家人であった梶原景時の告げ口もあり頼朝は義経を追放します。
義経は大いに嘆き悲しみ、数少ない家臣達を引き連れて落ち延びる事にしました。
彼が向かったのが奥州平泉です。
実は義経の母である常盤御前は奥州の当主である藤原秀衡の親戚筋であった男性に嫁いでいました。この常盤御前が秀衡に手紙を送り義経を匿ってくれるように頼み込みます。
彼は母のおかげで命拾いができたと言えました。義経は奥州に向けて長い旅に出ます。
奥州にたどり着くと秀衡は手厚く迎えてくれました。義経は若い頃に弁慶と共に奥州にて世話になっていた事があったのです。久しぶりに秀衡は義経と再会し無事な姿を見れた事を喜びます。
けれど。平穏な日々は長くは続きませんでした。鎌倉の軍勢が攻め入ってきたのです。
秀衡は急な病で既に亡くなっていました。
あとを継いだ息子の泰衡は義経を裏切り鎌倉方につきます。義経は奥州にて暮らしていた邸――高館に火をつけました。
自害して彼は三十年の生涯をこの地で終えます。弁慶や他の家臣達も後を追ったり逃げたりとほうぼうに散りました。
奥州の当主である泰衡も討ち取られます。
頼朝は鎌倉幕府の礎を着実に築き上げたのでした。
さて。静御前も義経と別れた後、鎌倉の追手に捕まり護送されます。彼女は身ごもっていました。それもあり静御前は命は助けられましたが。
頼朝の命により鶴岡八幡宮にて舞と歌を披露します。静御前は敢えて義経を思う歌をうたい、舞を奉納しましたが。
頼朝の怒りを買い、斬られそうになります。
それを抑え、諌めたのが北条政子でした。
政子の計らいもあり静御前は斬られずにすみました。この後、静御前は一人の男児を生みます。
けれど。頼朝はこの男児を海に流させました。
静御前は悲嘆に暮れながらも鎌倉から京の都に戻りました。
彼女は寺に行き、尼僧になります。静かに義経や男児の菩提を弔う日々を送りました。
享年は二十歳だと言われています。
……いかがだったでしょうか。
悲しい話でしたが。義経と静御前。
不幸な末路を辿った二人ですが。
私は二人が彼岸の地にて再会したと信じたいです。
それではこれくらいにしますね。
お読みいただき、ありがとうございましたm(_ _)m
山椒が個人的に好きな武将「源義経」
キタ!とテンション上がりました。
平家物語の一の谷はカッコイイですよね~。
入江様のお話、完璧なので多くは語らない。
なので地元のチョイ情報。
春先にですね。春の藤原祭をするのです。
「源義経公東下り行列」
これが毎年、話題でして。
それぞれの役を誰が務めるかで大賑わいしておりました。
大河ドラマの関係でタッキーが務めた際は、その町の人口の10倍くらいの人が集まりました。
とても雅。
入江様にも見て頂きたいお祭りです~。
中尊寺金色堂、実際見ると圧巻で言葉を失います。